関西学院大学体育会ラグビー部 部歌
『出陣の歌』

作詞 山田一郎
作曲 東儀哲三郎

  1. 甲の山下上ケ原台  秘策を胸に南を図る
    脾肉を嘆きし蒼鷲十五  今こそ戦を求めて立ちぬ
  2. いざ友仇し名平和は捨てよ 倫安しばしば痴人の夢
    絶えざる戦は不滅の真理  聞かずや高鳴る陣鼓の響
  3. 時こそ来たれりいざ戦はん  我等は涙の誓いを憶ふ
    若き生命を真理に捧げ  我等は努めて勝利を追はん
  4. 時こそ来たれりいざ戦はん  我等は去にける人をし偲ぶ
    勝利は若き男の子の希望  勝たでは再びこの丘を見じ
  5. 嗚呼晴れ戦中原の野に  堂々駒を進めて行かん
    栄誉ある部史は我等を守る  我等が行く手は輝きてあり

 

【部歌解説】
日本学生ラグビー界は、関東の慶大、早大、東大、明大、関西の同大、京大等が明治時代末期から大正時代にかけて次々に創部されました。昭和初期には各々定期戦、交流試合等が行われ確固たる地位を築いていきます。
関学ラグビー部は、大正時代には色々な運動部員を集めた混合チームで試合を行っていましたが、学院に正式に運動部として許可されたのは、上記の大学に遅れる事十数年後の1928年(昭和3年)4月、故天野亮氏によって正式に創部となります。

「出陣の歌」は、関学ラグビー部の創世記時代、創部から1935年(昭和10年)頃迄の事を背景にして、当時の関学ラグビー部の精神を歌い、部員を鼓舞すべく作られました。
その歌詞は当時学生が一番憧れた中国の英雄史、三国志時代(後漢—戦国時代)を念頭に置き当時の故事に重ねて、1932年(昭和7年)卒の関学ラグビー部主務であった山田一郎によって卒業後に作詞されたものです。


1.甲(かぶと)の山下 上ケ原台
  秘策を胸に 南を図る

1929年(昭和4年)、関学は神戸(原田の森)から西宮の甲山のふもと上ヶ原にそのキャンパスを移し、広大な敷地を得て意気高き時であり、関学ラグビー部もラグビー競技の先駆者であった京大、早大OBに教えを請ながら、然しその教えられたラグビーから脱し関学ラグビー独自で編み出した秘策、戦法、サインプレーを胸に抱き天下覇権を狙い外に戦いを求めた。

注:当時のラグビーはおおむねオーソドックスなプレーが主流であり、サインプレー等はあまり行われなかった。その中で関学ラグビーは近代ラグビーの走りとも云える新しいサインプレーを生み出し、積極的に試合でも採用して行った。

注:“南を図る”とは中国故事で「天下を狙う」との意味。

  脾肉(ひにく)を嘆きし
  蒼鷲(そうしゅう)十五
  今こそ 戦を求めて立ちぬ

然しグラウンドは 他の運動部と共有で、十分な道具、設備、練習場もなく、充分な組織だった練習もままにならない中で、若い選手15名は外に戦いを求めて立ち上がった。

注:脾肉を嘆きし
三国志初期に(後の蜀の皇帝)劉備玄徳が荊州にて食客となっている時に平和に慣れ贅肉がついてしまった事を嘆いてた故事、より来ている。ここに於いては共有グラウンドの関係で充分な組織練習、試合が出来てない事を嘆く、の意味であろう。
脾肉とは「太もも」の事。太ももに贅肉がついた事を嘆いているという有名な故事。
注:蒼鷲十五
若き鷲の様な選手15名の意味。


2.いざ友仇し名平和を捨てよ
  楡安(とうあん)しばしば
  痴人(しれびと)の夢

いざ友よ、偽りの平和をすてよ。安易な練習、訓練で安閑として楽をする事は馬鹿者の夢でしかないではないか。

注:創部当時から関学ラグビーはその練習量、走る量の多い事で有名であった。関学ラグビーの練習量と比較されるのは唯一関東の早大位なものでした。

注:楡安しばしば 痴人の夢
「偽りの、安易な、馬鹿者の夢」
三国志に於いて、劉備が荊州にて安閑としている時、宿敵魏の曹操は北の同盟者袁紹を倒し、着々と地盤を築き 南下の時を伺っていた事の由来。しかし劉備はそれを嘆き、自覚し、対抗すべく、天下の名参謀諸葛孔明を三顧の礼にて得て、“天下三分の計”へと進む。

  絶えざる戦は不滅の真理(まこと)
  聞かずや高鳴る陣鼓の響

常に厳しい練習に励み、訓練する事のみが試合(戦い)に勝つ真理である、 聞いてくれ、この激しい練習に裏づけされた我が軍の陣太鼓をの響きを。


3.時こそ来たれりいざ戦はん
  我等は涙の誓を憶(おも)ふ

我が関学ラグビー部も創部後数年、結束も固まり戦いの準備が出来た。部員一同結束の誓い忘れる事なく戦おうではないか。

注:時こそ来たれりいざ戦わん
三国志初期、後漢の末期黄巾の乱で天下が乱れた為、治安を快復し良民を守るためにいざ戦おうではないか。

注:誓いを憶ふ
三国志初期の桃園の誓い、(義兄弟の誓い)、英雄劉備、関羽、張飛が桃園で交わした誓い。即ち「我ら同年同月同日に生まれざるも、願わくば同年同月同日に死のう」の誓いを結ぶ。「さあその結束、決意の誓いを忘れるな」の意味。

  若き生命(いのち)を
  真理(まこと)に捧げ
  我等努めて勝利を追はん

いざ若い命を、情熱を真理(ラグビー)に捧げて勝利を掴もうではないか。


4.時こそ来たれりいざ戦はん
  我等は去(い)にける
  人をし偲(しの)ぶ

いざ戦いの時が来た、さあ戦おう、わが関学ラグビー部を創り、育ててくれた先輩諸氏の天下覇権の夢を実現すべく。

注:ここで、2度目の「時こそ来たれリいざ戦はん」とあるのは、三国志において、歌詞第三節の時は、桃園の誓いの後の当初の旗揚げを指し、ここ第四節の歌詞は、劉備玄徳が天下の名参謀諸葛孔明を得て、いよいよ天下三分の計を推進し天下覇権を目指し、大きく羽ばたこうとしている時を指し、天下覇権を夢みて去って行った先輩諸氏を偲びながら、の意味と思われる。

  勝利は若き男の子の希望
  勝たねば再びこの丘を見じ

勝利は若い我等のねがい。勝たなければ再び上ヶ原には帰らない、の強い意気込みで望もうではないか。


5.嗚呼晴れ戦中原の野(や)に
  堂々駒を進めて行かん

さあ、晴れて、天下覇権に向かって、堂々戦を(試合を)挑もう。

注:中原の野とは、天下、国の中央部、一番重要な場所で三国志の場合は洛陽を中心としての黄河の中、下流の肥沃な広大な地域を指す。当時、ここを制した者は天下を制した意味を持った。

  栄誉(はえ)ある部史は我等を守る
  我等が行く手に輝きてあり

栄誉あるわが関学ラグビー部の伝統が我々を守り、我々の輝かしい前途を照らしているではないか。


注:第一節“南を図る”とは上記にあるように、天下覇権を狙う、の意味が順当であろうが、後日、故湯川健吾監督は“南”とは ニュージーランドに通じ、すなわち世界最強ラグビーチームの「オール・ブラックス」をも狙え、少なくとも、その気概を持てと説かれたとの逸話もある。

注:関学ラグビー部は創部当時、部員は他の運動部と掛け持ちの選手が多かったので、ラグビー部として創部した際、ラグビー部として明確に規律を正す為、“全員丸坊主にすべし”とし、また部内に禁則を設け、その2条に“学院内では禁煙、禁酒の事 万一露見の時は火あぶりの刑に処す”と明記した。その位、精神、規則を重要視し、猛練習に励んだという気概がこの部歌にも表れている。

編纂:伊藤 隆二(1962年卒)

 

関学ラグビー部は試合前、円陣を組み部歌「出陣の歌」を歌う。歌うというより「叫ぶ」と言った方が正しいかも知れない。
− 時こそ来れりいざ戦はん −
選手達は気持ちを奮い立たせ戦いに挑む。

 

※今日では不適切とされる語句や表現がありますが、そのときの時代背景を考慮してそのまま掲載しております。

 

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